常識では考えられなかった地方巡幸

日本天皇の特質を知る上で、はるかに大切なのは中世史である。日本の中世史が意義深いのは、長い時間をかけて天皇を権威だけの存在として残し、実務権力のほうは幕府が担うという世界でまれに見る、特異な「権・権分離」の政治体制を作り上げたからである。
 こうした特質があるために諸外国の王は国が分裂の危機にさらされると、いままで巨大に見えたものが、あっけなく崩壊してしまう例が多いのに反して、日本天皇は、国が分裂の危機に遭遇したときこそ、必要とされるものになった。日本天皇にこの性格があったからこそ、日本は明治と戦後の二回にわたって離れ業を演ずることができたのだ。
とりわけ、昭和二十年の敗戦の際、世界の敗戦国の常識を破った形で天皇が生き残ることが出来たのは、一種の奇蹟とさえいえるものだった。アメリカは敗戦で天皇は日本にいられなくなると考えて、亡命先としてロンドンや北京を考えていた。ところが、昭和天皇は亡命どころか、国民のために自分の命はどうなってもいいと意外なことを言われた。地方巡幸がまさにその言の実践だった。  (入江隆則 明治大学教授)

大阪においでになったときですね。大阪の府庁、あそこにおいでになりましたときに、自動車のまわりを全部取り囲んだわけです。そして自動車が動かない。そこの府庁までお歩きになるのに本当に群衆の中にもみくちゃになったんですね。どれが陛下かわからなくなっちゃたのです。そして長官、侍従長、侍従たちはみんなバラバラになっちゃたわけです。陛下の後ろにただ守衛課長さんだけが一人おった。あとでうかがってみたら、陛下のチョッキのボタンが取れたり、靴が泥んこになって踏まれて本当にもみくちゃですね。だけど、陛下はそれをいちばんお喜びになったのではないかと思います。
  (鈴木元侍従次長)

警備なんてものはない。殺そうと思えば誰でも殺せるところに天皇はいた。おまけに戦争が終わった直後、武器はどこにでもころがっている時世である。敗北した治世者でこんな危険に身をさらしたものをほかに知らない。巡幸を阻止しようと思った労働組合の人々も実際に天皇を間近に見て、感極まり、赤旗を捨て「天皇陛下万歳」と叫んだ。「君主制は敗戦に耐えられない」というのが世界の歴史であり、いわば常識であったから、マッカサーならずとも世界のインテリは驚いた。
広島に原爆が投下されたのは昭和二十年の八月六日だ。その頃は「七十年は広島に草木一本も生えない」と言われた。被爆した人々は子どもに遺伝するから結婚は出来ないとあきらめていた人が多い。
この広島にも天皇の巡幸があった(昭和22年と26年、46年)。とくに、第一回目の昭和22年といえば、まだ誰も広島に行きたがらなかった。「天皇さまが来てくださったんだから、もう広島は大丈夫だ。結婚もできる」と広島の人たちは皆、そう思い、力づけられたという。
  入江隆則 明治大学教授

  • 世界が驚いた巡幸

昭和21年2月から始まった地方巡幸は29年の北海道をもって終わる。労働組合の幹部と会われたり、旅館に一般の客と同宿されたりして西へ北へ、旅程3万3千キロに及んだ。
敗戦国の元首や国王が失脚もせず、かえって国民から歓迎されるのは例がないと外国の人を驚かさせた。彼らは第一次大戦のドイツのカイゼルが国外に逃げ出したケースや、ヒットラーやムッソリニーのごとき末路を想像していた。それが殺されてもいい覚悟で自分の身を挺してきている。一体どういうことなのかということで、マッカサーもひどく感動した。
  (半藤一利

ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。しかし、そんなことは聞かない。だからすでにこの世におられないと思っていた。
ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、国民を慰めておられる。陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、無防備のままで巡っておられる。
平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、厳重な守りがなされている。それでも暗殺される王様や大統領がある。それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、焼き払われた廃墟を巡る。国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。 しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、これはどこにも見られないことである。われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。
  (オットーカロン博士 ボン大学教授 昭和25年)