2.皇族による世襲は守らねばならない

  • 皇族は天皇の5世孫以内

象徴天皇は生まれながらの皇族の血統でなければならない
つまり①皇族の子(天皇の5世以内の子孫)として生まれ、②皇室で育ち、③一度も民間人になったことがない人間だけが天皇になれる資格がある。

皇統は一系にして分つべからず。天皇直系の子孫在す限りは、子孫皇位を承けたまふことを古来の正法とす。(中略)皇位を承けたまふべき皇胤は、直近の天皇の直系の子孫たるべきことを正則と為す。
               (『帝室制度史』第三巻第二款「皇位の一系」)

天皇になれるのは皇族に限られる。伝統として守られてきたのは「天皇から4世以内」の皇族ということだ。唯一の例外が継体天皇の例である(応神天皇の5世孫)。
謙虚な目で皇室の系図を見てもらいたい。
系図を調べてみれば、皇統が直系を離れて傍系に移った例などほとんどない。天皇の地位に就く人物は、一部の例外をのぞいて、みな天皇の子または孫である。古代から明治初期まで、継嗣令という皇位継承の法律が使われていたのだが、継嗣令によれば「皇族は天皇の5世孫」までで、それよりも血脈の薄い子孫は臣籍とされている(法令ができた初期は4世孫までだが、後に5世孫までに改正された)
つまり、天皇に即位する者は、過去のいずれかの天皇の5世孫までとされていた。どんなに優秀で、政治力があっても、先祖が天皇というだけでは天皇になる資格がなかったのだ。
皇位継承において先帝と後継者の間柄が離れている、いわゆる傍系継承の場合もあるが、大事なのは皇位継承者が「過去のいずれかの天皇の5世孫内の血脈を持っていること」なのだ。
しばしば前例として持ちだされる、第48代称徳天皇と第49代光仁天皇はきわめてあいだの離れた皇位継承だが、光仁天皇天智天皇の孫であり、継嗣令で認められた皇族である。この継承は天武天皇系から天智天皇系に皇位が移った事例であって、けっして傍系の血の薄い皇族が即位した前例ではない。
同じことは今上天皇の祖先である光格天皇にもあてはまる。
119代光格天皇は118代後桃園天皇との血縁では遠い傍系であったが、113代東山天皇の3世孫という皇族であったから資格者たりえたのである。
これを系図で現すと東山天皇―■―■―光格天皇となる(■は不即位者)。
なお王、女王までが皇族であり、世襲親王家以外は、天皇の1世(現典範では2世まで)が親王内親王以下、5世までが王、女王とされていた。

    • 女系で繋がる皇統

歴代天皇の中で、もっとも血の薄い人物が即位した前例は古代の継体天皇親子だが、それでも応神天皇の5世孫だ。しかも継体天皇親子3人(継体、安閑、宣化)は、仁賢天皇の皇女(内親王)3姉妹と結婚している。
江戸時代の光格天皇の場合も、閑院宮典仁親王の第6皇子8歳を養子として迎え入れられたのち、まもなく即位させ、そして後桃園天皇の娘(欣子内親王)を皇后としたのも、血の薄い傍系の男子が内親王の婿養子になることによって、皇位を継いだ実例である。
なぜ第6皇子が天皇になれたのか? 
いうまでもなく、年齢的に内親王の結婚相手として相応しかったからである。

先代の内親王と結婚しても、皇位を継いだ第120代仁孝天皇は結局側室の子であったが、欣子内親王の実子として公称された。側室の子を実子と公称するのは異例のことであり、この異例が後の明治天皇の事例の前例になっている。やはり仁孝天皇の出自については、真相を公の場から隠し、後桃園天皇の血が絶えていないという虚構を作る意図があったことになる。
女系で繋がっている皇統の例
第21代雄略天皇−春日大郎皇女−橘仲皇女−石姫皇女−第30代敏達天皇−糠手姫皇女−第34代舒明天皇−代38代天智天皇

天皇の男系の子孫であれば天皇から何代離れていようとも天皇になることができるというのは誤解である。皇位継承権があるのは、5世王までだ。
では天皇から既に20世も離れてしまった伏見宮に戦前なぜ皇位継承権があったのか? これは親王宣下(しんのうせんげ)を受けていたからだ。天皇から5世以上離れていても、親王宣下を受けた皇族には皇位継承権があった。ただし一代限り、その子供は改めて親王宣下を受けないと皇親にはなれない。


世襲親王家を継承する皇子は、天皇の「猶子」(ゆうし 擬制的な父子関係を築く制度)とされ、社会的に「天皇の子」となる。しかる後「親王宣下」を受け、ここで初めて親王の称号を賜る。「親王宣下」・「猶子の儀」の諸制度により、「世襲親王家」の歴代当主は本来なら天皇の実子しか名乗れなかった「親王」の称号を得る事ができ、皇室同様、側室の子供であろうとも5世以上に血が離れていようとも「皇親」であり続ける事ができたのだ。

 戦前の旧皇族は室町初期の崇高天皇の20世孫以上!そこまで遡っての継承は室町中期以降の天皇の血が入っておらず、もはや世襲とは言えない。それゆえに大正8年(1919年)、世襲親王家も長男の系統の8世孫までを皇族とし、それ以上は臣籍降下させることになった。伏見宮系の皇族は明治天皇の皇女が嫁いだ先が皇族にこだわったので、特例で天皇の養子だった邦家親王天皇の皇子とみなし、それから4世孫までの猶予を与えたにすぎない。つまり19世まで皇族とし、それ以上は臣籍降下させることになった。昭和天皇の初孫やJOC会長の長兄までしか皇族でおれず、その子息は臣籍降下して侯爵になっておしまいの予定だった。それに竹田宮東久邇宮は皇女を娶らねば皇族でいることを許されなかったのである。したがって旧11宮家の現在の当主は親王宣下を受けていないし、旧皇室典範に基づく規則により、たとえ敗戦を迎えず旧宮家が存続していたとしても、1945年以降に生まれた旧宮家男子は皇族を離脱する運命にあったのである。GHQの命令がなければ皇族だったという理屈は通用しない。
ちなみに伏見宮家があまりにも遠すぎることは江戸時代から問題になっていたので、伏見宮の当主が子なくして亡くなったときに、皇室から皇子を入れたことがある。ただ不運にも子がないままなくなったので、結局伏見宮家には20世以上も天皇の血が入らず来てしまったのである。

血統を異にする過去の皇統に対して平安時代の宮廷人がどのように考えていたのか、そのようなことを教えてくれる確たる資料は見いだせない。しかし時代は下って鎌倉時代末の『神皇正統紀』には、当代の帝を基に、血統が遡る皇統とそうではない皇統とを優劣をつけて明瞭に区別する視点が示されている。
同書は皇位継承を二種に分け、「万世一系」でいうところの歴代通常の皇位継承を「凡その承運」と称し「代」で表し、当代から父子で遡る系譜を「まことの継体」と称し「世」で表して、後者を「正統(しょうとう)」として重視するという認識である。
当代を基準に直系か否かで「代」と「世」を区別する皇統認識があった。
http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/coe/seminar/iden/050902.htm

天皇系図には正統系図と傍系系図がある。旧宮家から天皇を出すと102代後花園天皇から今上天皇まで600年の正統を否定して、崇光天皇から旧宮家現当主まで20人ほどの不即位者で繋いで新しい幹を作ることになるから、天皇の血筋を正統とする皇位継承のやり方として通用しない。
もし、旧宮家の子孫が天皇に即位するとなると次のようになる。

93代後伏見天皇−北1光厳天皇−北3崇光天皇栄仁親王−貞成−貞常−邦高−貞敦−邦輔−貞康−邦房−貞清−邦尚−貞致−邦永−貞建−邦頼−貞敬−邦家(11宮家すべての父祖)−能久−(ここまで親王宣下をうけた親王)−恒久王−恒徳王−(ここまでが王。このあとは臣籍降下で民間人)-竹田恒治−竹田恒泰−128代天皇?


天皇天皇の間を不即位者20人で繋いだら血筋からしてもNGだ。せめて4、5代前の天皇には繋がっていないと新しい系図を作りようがない。

  • 君臣の別

天皇になれるのは天皇の子孫で皇族であること。一度皇族でなくなったら、その子孫も皇族になれない。臣下の者が皇位につくことを厳しく排除してきたのは「君臣の別」を大原則にしてきたためだ。臣籍の人間(民間人)となると、友もできれば、敵もできる。友にせよ、敵にせよ、生臭い話がついて回るから皇室に入れるわけにはいかなくなるのである。臣籍の人間の中には、思想的に今上天皇や現皇太子が好きでないため、旧皇族から天皇を担ぎ出そうとしたり、旧皇族を利用して何かをなしてやろうという考えの人がいないとも限らない。
この点で、皇族には多くの制限が課せられている、選挙権も被選挙権もない(法律で明文化されているわけではないが「戸籍」がないので)。そればかりか、言論や宗教や職業選択も制限され、結婚も自由にはできない。その上、皇室独特の伝統にも従わねばならず、金品の授与も自由ではない(皇室経済法など)。こうした制限が課せられていなかった民間人を皇族として迎え入れる場合には慎重な行状審査が行われる。皇族男子が勝手に結婚相手を選べないのも、このためである
旧宮家から次代の天皇を」というのは「皇室の伝統」からすると乱暴な議論である。旧宮家の人々は、皇族としての制限から解放され、自由な結婚、自由な発言、自由な活動が可能になっている。「君臣の別」の原則が当然適用されよう。