『正論』小児病

いまでは死語と化したが、現実を無視し、物事を観念的、公式的に主張する連中のことを左翼小児病と言う。あのレーニンが唱えてから歴史上は過激な跳ね上がり分子のことを指すのが決まり相場である。どうも「観念的、公式的な主張」と「過激な跳ね上がり分子」は相性が良いらしく、右翼の場合も例外ではないらしい。
遅ればせながら、『週刊新潮』新年特大号と『正論』2月号を読んでみたが、男系継承を説くどの論者も一夫一妻制での男系継承の困難性(→『過熱化する皇位継承問題』)に着目し格闘しておられない。まるで旧皇族皇籍復帰が実現できれば何の問題もなくなるかのような安直さである。現実を無視し駄々をこね、ないものねだりをするそのさまは、まさに『正論』小児病と呼ぶのが適当に思えてくる。(「http://www.kdcnet.ac.jp/sikamasu/seiron.htm
「拙速な議論である」とか、「あわてて女系天皇を認めなくともよい」という批判も現実離れしている。こうした問題は、時機を失すれば男系継承どころか世襲制それ自体が危うくなってしまう。一度皇室典範を改正し、血族による世襲の確保を行ってのちに、男系に戻す策があるやいなやじっくり議論すればよいことである。
また、あいかわらず「愛子さま、あるいは愛子さまのお子さまで女帝になられる方がもし李王家の方と結婚なされたらどうでしょう。日本は朝鮮民族によって無血占領されたようなものです。」と言っているが、父親が外国人とか政治家でもいいのか、というのは「ためにする議論」であり、「最低の議論」である。皇室の結婚は完全自由ではないし、結婚する本人も自分に対する国民の期待はわきまえている。このことを否定したら、そもそも天皇制は成り立たないことになる。

さて、国民それぞれの歴史観や国家観で天皇について抱くイメージが違ってきているのはやむをえないことである。私もこのブログを通して、天皇に関する自分の歴史観や国家観を形成してきたが、完全に私に共鳴できる人は10人にひとりといったところであろう。国民的な問題に関しては事実の相違は議論できるが、そこに歴史観や国家観を絡ませると議論は不可能になる。歴史観や国家観をみんなが共有しているわけではないからである。相手の歴史観や国家観を知ることは相手の主張を理解する助けにはなるが、議論の対象にはならないのだ。
すなわち、「男系で継承してきた」というのは事実であるが、「男系で継承してきた伝統は何がなんでも守らねばならぬ」というのは歴史観であり、「伝統の良いところは残すようにして、改めるべきところは改めてきたのが日本の伝統」というのも歴史観である。皇室典範に関する有識者会議が「歴史観や国家観で案を作ったのではない」といったのは、ここのところを指しているのであろう。