天皇の権威はなぜ守られるようになったか

1.科学と主義の区別ができていない論争
皇位継承問題に付随した「神武天皇Y染色体論議への反応は興味深いものがあった。一つは学究的なはずの人にイデオロギー的な反応が見られたことである。事実の部分と意見の部分を区別して論じるべきなのはいうまでもないと思うが、「事実の部分」に対して価値を意味付与することはよくあることである。これに反対の立場で反発するのは、主義主張のぶつかり合いでけっこうなことだが、自分の主義を正当化する論拠に相手を科学的でないと批判し、あたかも「事実の部分」を争っているかのように混同している意見がなされている。(2005年6月の古い記事を取り上げることになってしまったが)

竹内久美子の「ズバリ、答えましょう」(脱力) : 5号館を出て
ここでは「まじめな(汗)生物学者として」「誠実な科学者の義務であると感じ」、竹内久美子を批判しているわけだが、その内容はというと、竹内久美子が同一のY染色体天皇家に受け継がれてきたのは奇跡に近いことだから断絶することなく続いて欲しい、といっていることに対し、Y染色体にたいした意味はないと噛み付いているだけなのである。Y染色体にたいした意味はないのかどうか、それこそ真面目に生物学的論争をしていただきたいところだが(笑)。
どうしてこんな文章が出来上がってしまうかというと、書いた本人stochinai氏 が、たとえば、「天皇は特別な存在ではない。天皇も人として平等に扱われるべきである。世襲を国の象徴とするのは不合理であるから、共和制に移行すべきである」といった主義をもっていて、イデオロギー先行で反応してしまうからだ。こんなことで日本の生物学者は大丈夫なのかと心配したくもなろう。
竹内久美子はトンデモエッセイで有名だが、それは彼女がリチャード・ドーキンスの【利己的遺伝子」説を拡大解釈、拡張解釈しているからであり、ここで取り上げている問題とは別の問題である。stochinai 氏は竹内久美子に「生物学的事実をちらばめ科学的な話をしていると見せかけて、非科学的なエピソードや嘘、思いこみなどをまぜて、単なるエンターテインメントとしても文を書くのは、ご自由なのですが、今回の話のような、政治的イッシューにもなりうる問題や、男女差別というような社会的な問題に、あたかも生物学的結論があるかのような話をするのはいい加減に止めていただきたいと思います。」という。それなら、私もstochinai 氏に対して申し上げたい。社会的な問題に、あたかも生物学的結論がある(Y染色体にたいした意味はない)かのような話をするのはいい加減に止めていただきたいと思います。



2.「天皇の子孫が100万人いてもおかしくない」は本当か。
先月「神武天皇Y染色体」を、なるべく感情移入することを避けながら取り上げた。というのも、Y染色体に特別の価値があるか否かは議論の対象外であるからだ。ではなぜ取り上げたかというと、世間で女性天皇女系天皇の違いについて理解していない人が多いように、男性天皇男系天皇の違いを理解している人も少なく、その違いを知る目印、あるいはリトマス紙として「神武天皇Y染色体」の話がわかりやすいからであった。
ここで再度「立花隆説」を俎上に載せてみよう。科学的論争であるかのように錯覚してイデオロギー論争をしている人もいれば、イデオロギー論争の手段に科学的な検証を省いた「事実」を論拠にする人もいるので、一筋縄ではいかないのである。
学究的な態度を貫くためには事実の見極めがきわめて大事である。だから本来は事実をすべて検証してからでないと意見の発表など迂闊にできないところである。しかし、そこはブログのいいところで、事実認識に間違いがあれば、すかさずコメントやTBが頂けて、根拠なき事実に基づいた意見は撤回したり、訂正したりできる。私もその点は心得たつもりで、事実問題に半解なままで、ときには推測を交えながら意見を述べたり、あとから勉強した事実を積み重ねて意見を補強したりしてきた。これでよいのだと思っている。
さて、「立花隆説」というのをかいつまんで書くと次のとおりである。

神武天皇Y染色体を受け継ぐ人々はゴロゴロいる
100代だと2の100乗である。これは日本の総人口(1億人とする)の1兆倍の100億倍というとんでもない数字になる。子孫の半分は女性だろうからそれを半分にする、子孫同士の結婚によるダブリを差し引くなどの、いろんな条件をつけての割り算、引き算をたくさんしていったとしても、神武天皇Y染色体を受け継ぐ人々が、今の日本にゴロゴロいるはずという意味がわかるだろう。

この計算はどうしてもおかしいわけである。立花先生は子孫の半分は男性で「神武天皇Y染色体を受け継いでいる」という考えのようだ。つまり男性天皇男系天皇の区別ができていないようなのである。それと「日本の総人口(1億人とする)の1兆倍の100億倍というとんでもない数字」をパラドックスとは感じなかったのであろうか。数字のパラドックスは謎解きが必要である。謎解きをしないで(つまり事実の確認と検証をしないで)、出てきた数字が自分の論に都合が良いからといって援用するのでは教授失格ではなかろうか。
実はこの謎解きについて私自身発表したものにまだ満足が行ってなかったのである。そこで謎解きの決定版を試みることにしたい。

  • 天皇一家を血族として数えることにする。血族以外の配偶者は姻族として数えることにする。血族の中でも男系子孫を皇族と呼ぶことにする(内親王も皇族であるし、男系子孫でも臣籍降下すれば皇族でなくなるが、これは定義上の概念である。)時はAC600年。第26代継体天皇から約100年後第33代推古天皇の時代である。推古天皇女性天皇であることから推察できるように、皇位継承者たる皇族は少ない。その数10名としよう(実際はもうちょっと多かっただろうが)。そして当時の人口を450万人とする。成人男性が100万人いたとしたら、確率的に子孫を残す割合が同等と仮定できるので、何世代後でも「皇族」のY染色体を持つ人は男性の10万人に1人。現在の人口(男性6000万人)で計算すれば600人となる。
  • 当時の夫婦に成年に達する子供が2人しか出来なかったと仮定する。(産褥死や幼児の死亡率の高さ、疫病の流行、夫婦の若死などを考えると妥当な数字で、人口は他国からの流入を除けば定常状態にあった)。すると次世代の日本人口は増減なしである。もし血族の結婚相手が姻族であれば子供が2人で血族の子孫は倍になる。孫、曾孫の代で倍々で増えていくことになろう。七百年で20回代替わりすると血族は10人から400万人に増えることになる。ところがこの七百年間に全体の人口は定常状態で450万人のままであるから、日本人のほとんどが交じり合って血族関係になったことになる。七百年で19回代替わりすると血族は10人から520万人に増えることになる。ところがこの七百年間に全体の人口は定常状態で450万人のままであるから、日本人の全員が交じり合って血族関係になったことになる。このモデルが誰もが天皇の血筋を引いていることの例証である。このモデルで大事なのは皇族の数である。皇族の数は700年後も10名から増えることはない!! 450万人(その半数は男性)のほとんどが血族になったが、全員が血族になっても全人口に対する皇族の比率は変わらないのである。
    (参考:神武天皇はサイコロ遊びをしない? - 月1テーマ追跡ブログ 愚論・異論にようこそ
  • しかも血族が全人口に拡散することもありえなかったのである。たとえば、10代を経て血族が2の10乗掛ける10で10000人を超えたあたりで配偶者も同じ血族から選ばれるようになると、血族の増加にストップがかかる(2人→2人で同数)。一代で多産だったときは、同じ血族で、かつ年頃の異性が見つからないため、仏門に入ることも多かったらしい。


事実の考証

    1. 日本の人口は、縄文時代には約10万人〜約26万人であり、弥生時代には約60万人であった。奈良時代には約450万人、平安時代(900年)には約550万人となり、慶長時代(1600年)には約1,220万人となった。江戸時代には17世紀に人口が増加し、18世紀には停滞して、おおむね3,100万人から3,300万人台で推移した。「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」(鬼頭宏 講談社 2000/05)
    2. なぜ第33代推古天皇の時代の皇位継承者たる皇族の数を10名としたかというと、一度武烈天皇の代(25代)で断絶しかかり、子孫確保をやり直したからである
    3. 武烈天皇の代(25代)で断絶した原因は皇位継承争いによるものである。仁徳天皇(第16代)に4人の皇子あり。四男(のち殺害される)を除いて17,18,19代天皇となる。19代天皇没後その皇子兄弟対立あり、長男は伊予へ配流。次男、三男(雄略天皇)が20、21代天皇となる。20代天皇仁徳天皇の四男を殺害。四男の息子20代天皇を殺害。21代雄略天皇皇位を継承するにあたり、仁徳天皇の四男の息子を殺害、さらに17代天皇の長男を殺害、次男、三男は逃亡。雄略天皇の長男、異母弟を殺害して清寧天皇(22代)となる。清寧天皇に皇子なし。逃げていた17代天皇の次男(億計)と三男(弘計)を見つけ出し宮中に迎え入れた。やがて23、24代天皇となる(三男が先に即位)。24代天皇の皇子、武烈天皇となるも皇子なし。ここに仁徳天皇の直系子孫ことごとく断絶し、15代応神天皇の傍系に子孫を求め、26代継体天皇が即位することになったのであった。AC500年頃。
    4. 歴史のなかの皇女たち(服藤早苗 小学館 2002/11)によると古代の日本では同母の男女以外の結婚はすべて認められていた。皇族や貴族の場合、父方一族間の近親婚が政治的な理由からも好まれた。古代の場合には皇女の多くが結婚しているが、その相手はごく限られた人々で、天皇の系譜に記録されている皇女の結婚相手はすべて皇族(王族)であった。このように古代の皇族はきわめて純血主義だった。近親婚の弊害は、逆に近親婚を重ねることで淘汰されていったと考えられる。
    5. 平安時代になると、賜姓による臣籍降下平氏、源氏)が行われた。これは皇族からはおよか血族からも除外する処置であり、結婚相手が血族以外でも良かったことを意味している。
    6. 平安後期以降、皇位継承とは関わりのない皇子皇女たちは出家する慣例が生まれたため、賜姓源氏はほとんど途絶えた。江戸時代に入って一家が生まれたのみ。嵯峨天皇以来、21代の天皇の子孫に源氏が与えられたと言われている(源氏を与えられた当人やその子の代で断絶・消滅した家も含めて)。賜姓源氏となった者が21代天皇に延べ100人とすればその男系子孫が50〜200人いてもおかしくないが、現代までに伝わる消息はわずかである。(参考:源氏 - Wikipedia
    7. 平家については平清盛一族政権の没落後、各地に散らばって隠れ住んだ清盛の孫や曾孫の子孫を自称する武家は大変多く、代表的なものとして薩摩の種子島氏、対馬の宗氏、尾張織田氏などが挙げられる。しかし、これらは子孫だとしても平家一族の子孫ではなく、平家に仕えた郎党の子孫というべきだろう。(参考:平氏 - Wikipedia
    8. 江戸時代の皇族はその高貴とされた生まれゆえに進むべき道が限定された。長男以外は男女を問わず、仏門に出家させた。未婚のまま生涯をすごす皇女の八割近くは尼寺へ入寺した。結婚する場合は、相手が摂家もしくは親王家の当主か、その相続者に限られた(例外は和宮親子内親王などの3例だけ)。
    9. 明治時代に入っても、昭和の終戦まで皇族の結婚相手は皇族が原則であった。 旧皇室典範 制定:1889(明治22)年2月11日 廃止:1945(昭和22)年5月3日
      • 第35条 皇族ハ天皇之ヲ監督ス
      • 第39条 皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル
      • 第40条 皇族ノ婚嫁ハ勅許ニ由ル
      • 第41条 皇族ノ婚嫁ヲ許可スルノ勅書ハ宮内大臣之ニ副書ス
      • 第42条 皇族ハ養子ヲ為スコトヲ得ス


3.易姓革命を嫌った怨霊信仰
私は、日本という国を代表する権威がどのように継承されてきたのかという日本史をめぐる話題のなかで、「皇族の子孫」の数に対する間違った理解を糾してきた。つまり、「私だって神武天皇の子孫であると勝手に主張」できない仕組み=純血主義があったわけだ。かつ平安時代において、他の血族による皇位簒奪を容認しない不文律が武家社会のなかに出来上がったことが大きいのである。
以下、象徴天皇の発見 (文春新書)今谷明 文藝春秋 1999/03)による。次のようなポイントがあげられている。

壬申の乱以来、奈良時代を通じて皇位継承争いで皇族が大量に処刑されることが繰り返されてきたが、平安時代は350年間皇族から刑死者を出さなくなった。
御霊信仰 御霊神社
http://fleshwords.at.infoseek.co.jp/dt/dt067.htm


その間、10世紀から近現代まで、お隣り中国では易姓革命が盛んに行われた。「易姓革命」とは、徳のある者が悪徳王朝を武力で倒して新王朝を樹立することを天命と称して肯定する古代中国の思想である。世襲されてきた王朝が姓が異なる者にとって代わられるため易姓革命といわれる。
易姓革命は言葉の聞こえは良いが、中国では簒奪者が前王朝の血統を根絶やしにすることを意味していた。血統の異なる者に帝位を奪われると、前帝の子孫はまず生き残ることができなかった。王朝革命後に前王朝の宗族が生き残ることはあり得ないという状況は明の時代(1368年〜1644年)まで続いている。しかも、高官文官10万人殺害や、同族殺害といった例にも事欠かず被害の累も広範囲に及んだ。中国で前帝一族の保全がなされたのは、20世紀になってからだ。
権力簒奪者が簒奪者の都合の良いように前王朝に悪徳のレッテルを貼り付け、歴史を改ざんすることが普通に行われていたらしく、その伝統は今日の中国の為政者にも引き継がれているようだ。
易姓革命は何も中国の専売特許ではない。大統領が変わるたびに、前大統領の不正や腐敗が暴き立てられ、二度と政界復帰ができないように叩きのみされる韓国の実情はまさに易姓革命である。
日本は怨霊信仰が台頭したおかげで易姓革命を忌み嫌い、天皇の権威を簒奪することは許されないという不文律を作り上げていったのである。