自分のやり方が一番いいやり方だ

信じたいと思うことがらを信じることができるのは、それに必要な証拠を十分に集めることができたときだけである。こうした点に関して言えば、人は一般に自分が客観的であると思っているということは示唆的である。しかしながら、ここで考えている客観的というのは錯覚である可能性がある。
一般的に言えば、私たちは、自分の好む結論と自分が嫌う結論とに別々の評価基準を用いがちだということである。自分が信じたいと欲している仮説に対しては、仮説に反しない事例を探してみるだけである。これは多くの情報が曖昧で多義的性質を持っていることを考えれば、比較的達成されやすい基準である。これに対して信じたくない仮説に対しては、そうした忌まわしい結論にどうしてもならざるを得ないというような証拠を探すことになる。これはずっと達成が困難な基準である。
 人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)( トーマスギロビッチ 新曜社 1993)

人は誰も自分が重視する特質において自分を高く評価する。注意深いドライバーは注意深さを重視し、運転技術に長けたドライバーは技術を重視する。そのどちらでもないドライバーは、少なくとも自分は礼儀正しいと考え、礼儀を重視する。その結果、どのドライバーも自分は平均以上の良いドライバーであると評価することになる。同じようにして、どの子どもにとっても自分が飼っている犬が近所で一番いい犬であるということになるのである。
     トーマス.シュリング(経済学者)

的中率と回収率の二律背反

競馬ファンは、自分のやり方が自分の知っているかぎりで一番いいやり方だと思っている。
地方競馬でよく見かけることだが、セミプロを自称するファンは締切り直前までオッズの動きを見ている。どうしてかというと、狙い目のオッズが下がるのを待っているのである。下がれば「強気」になって勝負に出ている。こうしたセミプロは「的中」に力点をおいている。結果はずしても決して自分のパターンをくずさない。長年の経験で、こうしたやり方がトータルの成績によいと考えているからだ。結果的にあまり大きく「損をしない」といわれる。逆に自分が予想した本命馬券があてにしたほどつかないことが分かって気落ちする人、そのレースを見送る人もいる。しかし、その馬券を買い目から外す人はきわめて少ない。「くると思っていたけど、オッズがあまりにも低いので買うのをやめたら、やっぱり来ちゃったよ」という泣き目の経験があるから押さえていどでも買わざるをえない。
するとどういう結果になるか。……来ても儲けにならない。
「ああぁ、本命にしていたのだからもっと厚みに買っておくべきだった。オッズに左右された俺がバカだったよ」と嘆息する。
逆に大きく勝負に出て、当たれば爽快、外れればガックリだ。資金が底をつくほど勝負に出てスコスコ帰途につく。わずかでも資金が残っているなら、前日予想はどこへやら「当たれば大きく取り戻せる」買い方に走り出す。穴ねらいの総流し、タテ目消去ヒモいらずの2点勝負、果ては金脈尽きての逆転ホームラン目当ての1点勝負なんでもありで、買った本人でさえ何が何だかわけのわからない「たられば」のどつぼにはまっていく。
こうしたことはすべてジレンマである。本命買いか穴狙いかという不毛の選択を永遠に背負いこんで、出口なき迷路にはまっている。結果オーライなら救われるが、経験が教えているように結果ミジメのほうが圧倒的に多いはずである。
つまり負け組みは、オッズを参考にしているといっても「いくら買うか」「いくら配分するか」の判断のためにでしかなく、「買うに値する目を決める」ために見ようとは決してしないから負け組みなのである。


もし、オッズが万人の眼の総合のたまもので、各馬の実力を正確に反映していると仮定すれば、どのような馬券でもその期待値は限りなく75%付近に収束しよう。買われすぎの人気馬券はそのことが嫌われ、不当に評価落ちの馬券には新規の買いが入るから、過度の人気、不人気は修正される。こうしてほとんどのレースで各馬の真の実力が修正係数0.2以内で評価されると仮定すれば、どのような馬券でも期待値60%〜90%の範囲内に収まってしまうわけであるから、いかなる必勝法も無力であり、存在しえないことになろう。
見方を変えれば、どのような馬券でも相等しい程度には有効性を主張できることになる。だから出目であれ、ゴロ合わせであれ、サイン解読であれ、極端なことをいえばサイコロ振りでも、一晩寝ずに検討して結論に達した買い目と等価であると言ってもさしてまちがいではないことになる。オッズが決まる仕組みからすればむしろそれが当然であり、だからこそ、競馬はビギナーからベテランまで対等の条件で楽しめるのである。
皮肉なことであるが、こうした結果を招いているのは総合的な判断力に優れたベテランが多数存在し、「正しいオッズ」をつけているためである。いわば彼らがブック・メーカーの役割を果たしているために、どのような馬券も「60〜90%」の期待値でオッズが定まってしまい、「平等に」「しっかりと」レジャー料をJRAに取られてしまうのである。


「個人の判断ではまちがいが生じるが、大勢の判断だと正しい結果が得られる」という例えに「体重推理」の話を聞いたことはないだろうか。100人ぐらいいる会場で誰か一人を中央に立たせて、その人の体重をみんなに推理してもらうのであるが、方法として、推理した体重を紙に書いてもらう。その紙を回収して推理した体重の平均値を出すと、本当の体重とぴったり一致するという話である。なぜこうした結果が得られるのであろうか。


たしかに本当の体重は本人にしか分からない。しかし、推理する人たちは皆、自分の体重や何人かの知人の体重ならなら分かっているわけである。つまり、既知の体重を基準にして推理することによって、誤差はプラスマイナス修正され、大勢の判断が総合されればされるほど正確なものになるのである。
競馬のオッズもこれに似ている。100万人もの人が自分の既知の知識を総動員して全馬の実力を推理し採点する。オッズはいわば出走馬のこれに比するものは1つとしてない採点表となる。そして、仮に多数の優秀な人々が、課題評価されている馬を見切ったり、過小評価されている馬を買ったりする機会を、常に探し回っているとしよう。各人がこうした行動をとる結果、締切り直前のオッズは各馬の実際の実力を反映したものになるだろう。したがって、ゴロ合せやサイコロで買う人も、様々な情報を分析して買う人とまったく変わらない結果が得られることになるだろう。
つまり、的中確率の低い馬券のオッズは高くなり、的中確率が高いと推測されるほどオッズは低くなる。期待値の計算式は最終オッズ×的中確率であり、かつ、これ以外にはない。この理屈でいくと、どの馬券の期待値も同じ程度になるようにオッズが決まることになる。期待値に目立った差が生じないということは、誰一人、控除率25%の壁を越えられないということだ。
さて万が一に期待値100%以上の馬券があると仮定してみよう。どうやって、その馬券を発見できるだろうか。オッズは誰にでもわかるが的中確率がわからなければ猫に小判。利用価値がないというか、誤った利用しかできない。ファンを猫にたとえては失礼だからヤギにオッズシートというべきか、こちらのほうが適切、言い得て妙だが、これまた失礼。
というわけで、問題は的中確率である。神のみぞ知るで、人知及ばざるところなり。的中確率を知るは夢物語。的中確率がわからなければ、競馬で儲けるのも夢物語。これ夢物語の二乗であるから、必勝法は無限に不可能とあいなって、「競馬に必勝法なし」の証明これにて終了、一件落着と相成り候。


こんな証明をしてしまってはせっかくの論講、JRAに差し押さえられて陽の目を見なくなってしまう。これは困る。いや困るのはJRA。競馬は儲からないことが証明されてしまっては、競馬熱も冷めてしまう。競馬研究を永遠のテーマ、ライフワークにしていた連中がアホらしくなってどんどん離れていってしまう。公表されては困ろう。だから「必勝法不可能の証明」をあらゆる角度からやらかせて、すべてJRAに買い上げてもらおう。


最終稿は明日。

 勝馬推理に重要なのは何か(2)

総合評価でポイント付けして、勝馬がわかればどんなによいだろう。先に26のファクターをあげたが、これらすべてを多変量解析で評価することが可能だろうか。可能だとして実用になりうるだろうか。おそらく、これらの要素は常に重要なのではなく、レースによってイレギュラーなもののはずである。したがって、イレギュラー度の低い要素を重視し、イレギュラー度の高い要素ははじめから捨ててかかるのが有効かもしれない。イレギュラー度の高い要素とはつまるところ法則としての安定性に欠ける要素である。あるいは流動性が極めて高い要素ということにもなる。
この観点から消去できる要素として、厩舎、騎手、ローテーション、出目、展開、枠順、予想紙、馬体重の増減、パドックでの馬の調子をあげておく。

ローテーション
連闘の取捨、休養明けの取捨、2走ボケの判断、どれをとっても正逆の評価が可能であり、法則としての安定性にかけている。ちまたの解釈はすべて結果論でしかなく次走にも通用する根拠が薄弱ではないかと思う、
展開
一般に重要なファクターとされているが、展開のバリエーションは無数に存在し、推理すること自体ムダといってよい。
枠順
枠順の有利不利は展開しだいで異なることが多い。展開自体、不安定な要素である以上、枠順にパターン化した法則はない。
予想紙
予想紙のあてにならないことは衆知のとおりである。
馬体重の増減
馬体重500キロの馬が10キロ増減したところで率にして2%(人間でいうと1キロ)。それを好材料ととるか、悪材料ととるか、一概に決められない。
パドック
主観的な要素が強く、専門家の判断さえ、好結果に結びつかないことが多いことを考えれば、当日パドックを見れるとは限らない大方のファンはまったく無視してかまわない。

これらの要素が勝馬選出に重要な役割を果たすことがないとは言い切れないが、パーフェクトは不可能の仮定の下に判断をくだす以上、レースの80%はこれらの要素で決まるという要素を残し、他の20%は捨ててかかるべきである。不確かな20%に振り回されて、読みに一貫性が欠けてしまうと、それが好不調の波を増幅させる原因になってしまうのである。騎手で買うというやり方で成果をあげている人もいるだろう、展開推理で的中させる自信家もいるかもしれない。しかし、これらのやり方では持続した成果をあげるには無理があるのではないだろうか。


ここまで『勝馬推理に重要なのは何か(1)(2)』を読んで疑問を持たれなかった人は、『なぜ競馬に必勝法がないのか』という私の本論に対しての理解が不足しているはずである。競馬ファンは、これまでこのようにして勝馬推理(=勝つ可能性が最も高い馬を見つける)という思考法に毒されてきたのである。的中させることと儲けることは違うことを身体では理解しながら、「的中度を高めれば儲けることができる」という錯覚に囚われてきたのである。