『女性天皇論』(中野正志著)批評
- 匿名の身分でいながら、個人名を晒して批判するのはフェアなことではないですよね?
前口上を書くことになったのは少しばかし、口汚い批評になってしまったからです。検索してみると、書評の常で中野先生を大絶賛しているものばかりで、こんなのでよいのか、彼は、女系天皇大歓迎で、その論拠も自己欺瞞で塗り固めたものだぞ、天皇を卑下しているぞ、と私は言いたくなるわけです。まあ、そこのところの感情は抑えてますが、中野先生も浮いた評価は食傷気味で、保守のふつうの人々がどんな感想をもっているかに関心がおありでしょうから、まあいいか、ということで以下、投稿です。
著者は、アンチ保守*1の立場で『女性天皇』の是非を論じている。保守とは価値観が違うため琴線に響くものはないが、資料的にはよく読みこんで書いているという印象がある。
第3章「女性天皇が排除された理由」に重要な論点が取り上げられている。その中でも
- 系統の始祖たる皇族女子に、皇族ではない夫が存在して子孫ができると、皇統が皇族ではない配偶者の家系に移ったと見られかねない。( P86法制局想定問答集:1946年)
- 男系継承を原則とするわが国の習慣のもとでは、女帝の次の天皇は、女帝の夫の家系の天皇となってしまい、「万世一系」でなくなってしまう。( P183「明治以後の天皇制はなぜ女性天皇を否定したか」近代史学者:鈴木正幸)
は現代でも十分説得力がある。中野氏もまたこの論を正面から論破できないでいる。
中野氏は、正攻法をとらず、保守にとってあまり意味のない反論を採用した。以下見ていく。
- 過去の女帝は単なる中継ぎではなかった。
- 王朝交代説が定説
- 中野氏は「衝撃的な王朝交代説」という見出しを掲げ、「衝撃的だったのは、もしこれらの説が正しいとされれば、『万世一系説』は一部どころか根本からくつがえってしまうからである」 P162と、鬼の首を取ったかのような書き出しである。以下、「明らかになった女系による継承」「つくられた万世一系」といった見出しが目に付く。私には、万世一系でどこが悪いのか、なぜ万世一系を目の敵にするのか、まったくもってわからない。
- 継体天皇以後でも1500年以上続いており、古代からの継承神話を否定しなければならない理由もないものを、「万世一系でない、血の正統性はない、だから女系でもよろしい」という論法で納得させられる保守の人間は一人もいないだろう。
- 天皇家の血統は特別なものではない
- 中野氏は「日本の皇室は、少なくとも千五百年以上は、大きな血統で結びついてきたのは確かだとしても」といいつつ、それが特別なことではない理由として、下記の阿川弘之の文章を「正当といえる」と援用している。 P263
私なら私が、祖父母、曾祖父母、その又曾祖父母と、家の家系を過去へと遡っていくと、直系尊属の数は鼠算的に増えて、二十代前の時点で、、百四万八千五百七十六人のご先祖様が全国に散らばってゐる勘定になる。三十代前だと約十億七千三百万といふ数字が出てくる。第百二十五代今上天皇の三十代前は花園天皇、時代は鎌倉後期、一人々々の現代日本人の、七百年昔の、十億を超すぢいさまばあさま(重複を除くと実際は千万人単位か?)の中に花園天皇の御近縁、公卿や親玉は一切入ってゐないと考へる方が、むしろ不自然であろう。(『諸君!』2004年7月号所収 阿川弘之「世界最古の王室」)
中野氏は、朝日新聞の購読者層を読者に想定して書いたのであろうが、私には、中野氏の論法で納得する読者というものの気が知れない。あとがきにはこうある。
「女性天皇への道を開く論議は、国民主権の下、今度は我々の手で象徴天皇制を見直していく絶好の機会といえるのではないか」 P311
象徴天皇制を見直してどうしたいのか、中野氏はこの先を語るべきである。『女性天皇論』は労作である。労作であるが的をはずしている。葛藤がない問題意識、格闘の跡がない結論の垂れ流し。こうした主張を私はプロパガンダという。
女性天皇論 象徴天皇制とニッポンの未来 (朝日選書)(中野正志 朝日新聞社 2004/09/11)
*1:昔は革新とか民主とかラジカルとか云ったものだが、この頃は正体があいまいになっているようだ
*2:先祖の数を数えるより、子孫の数を数えたほうがわかりやすいです。もし皇族の子孫の数が10億人を超える計算が正しいなら、あなたも皇族の子孫の一人に違いないですが、この計算は間違っているのです。
昔の皇族に子供が2人しか出来なかったら、次世代の日本人口は増減なしですが、皇族の子孫は倍になります。孫、曾孫の代で倍々で増えていくことになります。無限大に倍増していくかというと、そんなことはありません。皇族の子孫の配偶者はある程度以上の格式が求められるため、たとえば、10代を経て子孫が2の10乗で1000人を超えたあたりで配偶者も皇族の子孫から選ばれるようになって、増加にストップがかかります(2人→2人で同数)。一代で多産だったときは、格式が見合っていて、かつ年頃の異性が見つからないため、仏門に入ることも多かったです。
男系男子の子孫となると、子供が2人の場合は何十代経ってもほとんど同数です。皇族男性が百人いて、それぞれが宮家の当主だとします。すると、統計学上は百年後は子孫が八百人になっていても男系男子は百人しかいないことになるのです。宮家は約半分の50宮家に減少し、女系の男性は三百人いる計算です。
*3:かつての「主義」への依存を止め、精魂込めて解読作業に臨んだ P7、と中野氏は言うが、彼は思い違いをしている。本書での彼の問題意識は左翼のままであり、結論もその枠から決して超えようとはしない。超えてしまう領域では自分の意見を保留する用心深さである。
たとえば、天皇の内奏問題について、「天皇の政治行為を禁止した憲法に違反する」という見解に対して「内閣の助言と承認に基づいて…多数の政府文書に公印を捺さなければならないと定められている以上、文書の意味や目的について説明を受けぬまま、ただ印を捺せばよいというのは、辻褄が合わない」という見解があることを指摘しておきながら、「判断の分かれる内奏」で片付けてしまっている。 P282
天皇家への思いもいびつだ。中野氏は天皇家を同情の対象としているのだ。感謝の気持ちと同情の気持ちでは天と地の違いがある。なぜ感謝の気持ちが湧いてこないのか、中野氏は左翼風情の天皇感情に引き摺られたままなのだ。